大判例

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大阪高等裁判所 平成8年(ネ)2481号 判決 1999年3月18日

主文

一  原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。

二  被控訴人らの請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は一、二審とも被控訴人らの負担とする。

理由

第一  判断の大要

一  事案の概要

1  亡太郎は、平成五年五月二三日未明、米国カリフォルニア州ビバリーヒルズ市内にある滞在中のホテルのテラスにおいて、高所から転落して死亡しているところを発見された。亡太郎には、多額の生命保険、傷害保険が掛けられていた。被控訴人らは、亡太郎の妻子であり、本件傷害保険の保険金受取人である。控訴人は本件傷害保険の保険者たる保険会社である。被控訴人らは、控訴人に対し、本件傷害保険に基づき、亡太郎死亡による死亡保険金合計一億五〇〇〇万円の支払いを求めて、本件訴訟を提起した。控訴人は、亡太郎の死亡が自殺によるものであって保険事故に該当しない等と主張し、被控訴人らの請求を争っている。

2  主たる争点は次のとおりである。

(一) 亡太郎の自殺の証明責任。これが保険金受取人(被控訴人ら)にあるか、保険会社(控訴人)にあるか。

(二) 亡太郎の死亡は自殺か。

二  原判決の判断の大要

1  保険者は、死亡保険金の支払いを免れるため、抗弁として、被保険者の死亡が自殺によるものであることを証明すべき責任を負う。

2  亡太郎の死亡の原因について、過失による転落死とは考えられないが、他殺の可能性を否定できないうえ、死亡時の状況や動機が希薄であることからみて、自殺と推認することもできない。

3  よって、控訴人は、被控訴人らに対し、死亡保険金を支払うべきところ、受取人が推定相続人とされている保険があることにかんがみ、請求の一部に限りこれを認容する。

三  当裁判所の判断の大要

1  死亡保険金の受取人は、保険金を請求するため、保険事故の偶然性の要件に関し、被保険者が外形的、類型的に予期又は意図しない事故により死亡したことを証明すれば足りる。これに対し、保険者は、死亡保険金の支払いを免れるため、被保険者の死亡が自殺によるものであることを証明すべきである。

2  亡太郎の死亡は保険事故に当たる。

3  亡太郎の死亡は自殺によると認められる。同人はバルコニーから飛び降りて自殺したものである。その主な理由は次のとおりである。

(一) 過失による転落死とは認められない。

(二) 何者かに殺害されたものとも認められない。

(三) てんかん発作により転落したものとも認め難い。

(四) 遺体の発見状況や損傷状態及び現場の状況等の客観的事実からみて、自らの意思で、バルコニーの手すりを乗り越え、飛び降りたものというほかない。

(五) 自殺を図る動機や平素と異なる死亡前の言動が見られる。

4  よって、控訴人は、抗弁である免責事由の証明により、被控訴人らに対する死亡の保険金の支払いを免れる。本件控訴は理由があるから、原判決中控訴人敗訴部分を取消し、被控訴人らの請求を棄却する。

第二  事実の認定

一  全般的事実(亡太郎の死亡前の言動と遺体の状態等)

前示引用にかかる原判決記載の当事者間に争いのない事実、《証拠略》を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  亡太郎は、昭和九年二月一一日生まれで、身長約一五七センチメートル(六二インチ)、体重約五四キログラム(一二〇ポンド)の男性であり、平成五年五月二三日の死亡当時五九歳であった。

亡太郎は、一六歳のとき、初めて痙攣性全般発作を起こし、それ以後数回これを繰り返し、てんかんとの診断を受けた。亡太郎の場合、てんかんは、就寝後二、三〇分して発作を起こす夜間発作の形で現れ、二、三分で発作が終わり、その後三、四〇分間程意識がもうろうとした状態が続いて治まり、翌日の生活に影響することはなかった。毎日二回一二時間おきに抗てんかん剤のコミタール等を服用していた。そして、四五歳の時を最後として、それ以後一四年間は発作を起こしたことがなかった。なお、夜間発作を起こすてんかんの患者が、覚醒中に発作を起こすことは滅多になく、神経系に影響を及ぼす疲労の蓄積や多量のアルコール摂取があった場合に、その可能性があるというにすぎなかった。

亡太郎には、飲酒の習慣がなく、月に数回程度付き合いで飲むことがあっても、せいぜいワインをグラスで一杯という程度であった。しかし、煙草を嗜み、喫煙パイプでこれを吸っていた。

2  亡太郎は、平成五年五月一九日に日本を発ち、二日間香港に滞在した後、二一日に成田経由で米国カリフォルニア州ロサンゼルスに到着し、二四日までの予定で、ザ・リージェント・ビバリー・ウィルシャー・ホテルに部屋を取り、南館四八三号室に宿泊した。二一日の夕方ころ、四八三号室から電話して、面識のあった金髪の白人女性売春婦アンナを部屋に呼び、一五〇ドルを支払ってマッサージをさせた。そして、アンナに対し、明日は一緒に食事して、マッサージをしてほしいと申し入れ、その承諾を得た。

なお、亡太郎は、四八三号室から、東京に居住していた長女の被控訴人春子に対し、結婚を勧める内容の国際電話をかけた。さらに、二二日午前一〇時二七分ころ、ニューヨーク在住の乙山二郎(乙山松子との間に生まれた未認知の子)にも電話をかけて、米国に来ているが何か必要なものがないかなどと話している。

3  亡太郎は、二二日、より高層階にあるプールの見える客室への部屋替えを希望し、本件客室である南館六七九号室に移った。昼間のうちは競馬に興じ、午後一〇時二〇分ころ、翌日の昼過ぎまで借りる予定でいたレンタカーを早めに返還し、本件客室に引き上げた。

亡太郎は、三菱インターナショナルの木村副部長に電話をかけて、面会の約束を取り付け、さらに、午後一一時ころから三〇分ころまでの間にエツコ・ムラカミ方に電話をかけ、夫が不在と知るや、後日アトランタから電話するなどと話した。そして、午後一一時一六分ころ、食事と白ワインのルームサービスを注文し、前日の約束どおり、アンナが午後一一時三〇分ころから四五分ころまでの間に本件客室を訪れたので、同人に前金で三〇〇ドルを支払った。注文した食事等は、午後一一時四五分ころ、届けられた。その際、ルームサービス担当の従業員が、亡太郎とアンナを目撃し、同人らと言葉を交わした。そして、亡太郎は、アンナと二人でワインを飲みながら食事をとり、その後、マッサージを受けたりした。亡太郎が殆ど一人でワインのボトルを空けた。

アンナは、二三日午前一時ころから三〇分ころまでの間に本件客室を退出し、送迎役兼用心棒として本件ホテル前に駐車中の自動車内で待機していた夫のボブ・アクバーガーと落ち合った。本件ホテルの警備員は、そのころ、売春婦らしい金髪女性がロビーのエレベーターを降りて出入口ドアから外へ出ていくところを目撃した。

4  南館六七五号室の宿泊客は、二三日午前二時ころから三〇分ころまでの間に、金属同士がぶつかるような音や木製パレットがトラックから落ちるような物音を聞いた。また、南館三八一号室の宿泊客は、午前二時三〇分ころ、どさっという重い物が落ちるような大きな音を聞いた。しかし、そのころ、人の叫び声等を聞いた者はいなかった。

5  巡回中の本件ホテルの警備員は、二三日午前三時五〇分ころ、二階フロアに相当するプールテラスに、亡太郎が倒れているのを発見した。プールテラスは、平板であり、レンガやセメントからできていた。亡太郎は、本件客室とその西隣の客室のバルコニーを隔てる間仕切り用ボードの真下辺りから約二メートル南側に離れた位置に、足部を本件客室側に、頭部をその反対側に向けて、ホテルの外壁とほぼ直交する向きに、ブリーフとバスローブをまとい、素足の状態で、仰向けの姿勢で倒れていた。すでに脈はなく、身体は硬直して冷たくなっていた。そのすぐ東側に、喫煙パイプの火皿部分と柄の部分とが別れて落ちており、室内履きスリッパ一足も別々の位置に離れて落ちていた。また、これらの近くに、傘の備えられたテーブルがあり、その傘の布地部分に焼け焦げたような跡があった。午前四時八分、亡太郎の死亡が確認された。

6  遺体の損傷は概ね次のとおりであった。

(一) 右肋骨に複合骨折があったほか、頚椎や腰椎の脊柱にも複合骨折があった。さらに、右骨盤、胸骨も骨折していた。しかし、頭蓋骨や両下肢に骨折はなかった。

(二) 脳内に、蜘蛛膜下出血、硬膜下出血、脳底ヘルニア等が見られた。

(三) 右肺下葉裂傷、肝右葉裂傷・断裂、右心房裂傷、上行結腸間膜小裂傷等の内臓傷害があった。

(四) 右頭頂部頭皮挫傷、背部右側挫傷とこれに伴う斑点状擦過傷等があるほかは、両下肢背面にある挫傷、擦過傷が目立つ外傷であった。両下肢背面の外傷は、下肢骨に沿って上下に細長い辺縁性出血を伴う挫傷であり、そのうち左下肢の辺縁性出血と健常皮膚の境目付近に、足先から頭部に向けて皮膚がしわ寄せされ、これがポリープ状に積み上がった小規模な表皮剥脱があった。

(五) 顔面には、小規模の擦傷があるほかは、挫傷がなく、唇、口唇粘膜、歯肉にも外傷がなかった。左側上下の歯が各一本ひび割れ、左側下の歯五本がぐらつき、その間にある一本の歯からは金属歯冠が脱落していた。

(六) 咽頭部からは金属歯冠一個と喫煙パイプの破片が発見された。

遺体には、右のとおり、転落によって生じた損傷があったが、格闘外傷や防御創と見られる損傷はなかった。

亡太郎の血液からは、抗てんかん剤のダイランティン(発作抑制剤)が一ミリリットル当たり〇・九〇マイクログラム、フェノバルビタール(催眠剤)が一ミリリットル当たり一〇・〇〇マイクログラム、それに、濃度〇・一二パーセントのアルコールが検出された。右薬剤は、てんかんの発作を抑制するために、亡太郎が毎日服用していたものである。右フェノバルビタールは、有効血中濃度の下限値とほぼ同じであり、就寝中のてんかん発作をかなりの程度抑制するのに有効であった。しかし、右ダイランティンは、有効血中濃度の下限値をはるかに下回っており、しかも、アルコールとの併用によりその薬効が相当減殺されるおそれがあった。その他、麻薬や毒物等は検出されなかった。

そして、遺体を解剖したロサンゼルス郡検視局は、亡太郎が、バルコニーから転落してプールテラスに衝突し、その際被った複合鈍力外傷により死亡したとの結論を出した。

7  遺体が発見されたころの本件客室及びバルコニーの状態は次のとおりであった。

(一) 本件客室の出入口ドアは自動ロックされていたが、内側から二重にロックされていなかった。テレビや電気スタンドはつけっ放しであった。

浴室とベッドには使用した形跡があり、ベッドの上には折り畳んたパジャマが残されていた。

ルームサービス用カートには、二人分の食事をした跡が残され、空になったワインボトル一本、少しワインが残った状態のワイングラス二個等があった。

(二) バルコニーの中央辺りに、テーブルが置かれ、これを東西から挟む位置に二脚のイスがあった。バルコニーの南端は半円状に出っ張っており、これに沿って高さ約一〇九センチメートル(四三インチ)の鉄製の手すりが設けられていた。

(三) 本件客室のクローゼットのドア、グラスカウンターの上の二カ所から、亡太郎の指紋が各一個検出された。また、ウオーターグラス、電話機の二カ所から、誰のものとも識別できない指紋が各一個検出された。ワイングラスなどの食器類から、アンナやボブの指紋は検出されなかった。

(四) 本件客室、バルコニーとも、争ったような形跡はなく、また、荒らされた様子もなかった。

8  亡太郎の遺留品のうち主なものは次のとおりであった。

(一) テーブル上に、二二日付けロサンゼルスタイムズ紙、二三日付け競馬プログラム、同日付け競馬の申込用紙、金製ブレスレット、腕時計、金製ネックレス、小物入れ、喫煙具一式、缶入りパイプ煙草等があった。

(二) スーツケースの中に、パスポート、日本通貨で五万四〇〇〇円の現金、米国通貨で一八六八ドルの現金、一〇〇〇ドルのトラベラーズチェック、クレジットカード数枚、カメラ、グリーンヒルズ事業の計画書、設計図書、「中国における不動産開発及び運営の実務」と題する冊子、日本航空の日程表、帰国用の航空券、てんかん用の医薬品、てんかん治療に関する書簡、一九日付けロイヤル・ホンコン・ジョッキー・クラブのプログラム、二一日付けハリウッド・パーク競馬のプログラム、二二日午後一〇時七分と記載されたロサンゼルス・タクシー乗車記録兼領収証、婦人用香水、茶色い髪の成人女性の写真、衣類等が収納されていた。

9  ビバリーヒルズ警察署では、亡太郎の転落死について、過失、他殺、自殺の各側面から捜査を進めた。とくに、アンナは、亡太郎の遺体が発見される数時間前、本件客室で同人と会っており、しかも、昭和六二年二月、夫のボブとともに、売春代金を無理矢理取り立てようとした強盗容疑で逮捕された前歴があった。また、ボブは、当夜、本件ホテル前に駐車中の自動車内でアンナを待っていたうえ、平成四年一月、泥酔してアンナに対して暴行を働いた件で有罪となり、執行猶予中の身であった。そこで、同警察署では、アンナとボブに嫌疑をかけ、三度にわたり両名を取り調べたうえ、平成五年一一月一六日にはポリグラフ検査にもかけたが、亡太郎の転落死に関わったことを疑わせる反応は出なかった。結局、同警察署は、平成六年四月一三日付けで追跡報告書を作成した。これには、亡太郎の転落死について、過失とは考えがたく、他殺の可能性を裏付ける証拠もないが、そうかといって、唯一可能性のある自殺についても、遺書がなく、目撃者もいないことから、そのように断定することはできないとされている。こうして、死亡の経過、方法を確定しないまま、捜査を終結した。

二  表皮剥脱の機序

1  前示一6(四)の左下肢背面にある足先から頭部に向けて皮膚がしわ寄せされてポリープ状に積み上がった小規模な表皮剥脱(以下、左下肢の表皮剥脱という。なお、右下肢背面には、この表皮剥脱がない。)は、辺縁性出血とともに生じた皮膚のしわ寄せによるものと認められる。

すなわち、《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

辺縁性出血とは、皮膚が鈍体で打撲された場合に、打撲部位に形成される蒼白区域とその辺縁に形成される皮下出血をいう。そして、亡太郎の両下肢背面にある辺縁性出血は、同人が転落してプールテラスに激突した際、下肢骨とプールテラスとの間に挟まれた皮膚や筋肉が圧迫され、そこにある血液が下肢骨の辺縁に押しやられて生じたものである。

これに対し、擦過傷(表皮剥脱)は、鈍体が皮膚面に主として直接的に作用し、表皮を剥離して真皮を露出した傷をいう。

ところで、ロサンゼルス郡検視局の検死報告書には、「大腿部の後ろにある擦過傷は皮膚のしわ寄せを起こしており、この擦り傷が足先から頭部方向に加えられた力によるものであることを示している。」(abrasions on the backs of the thighs have skin piling which indicate that the direction of force producing them proceeded from the feet toward the head.)とか「この擦傷はごく小規模な皮膚ポリープを有しており、力の方向が尾から頭方に向かっていることを示し、頭蓋に向けて積み上がっている。」(this abrasion has tiny skin tags which show piling toward the head,indicating that the direction of force was caudal to cranial.)とか記載されている。また、同検視局のメディカルレポートには、「皮膚のパイリング」(piling of skin)とのみ記載されており、擦過傷との記載はない。しかし、いずれにせよ、パイリングの擦過傷と物体に擦ってできる擦過傷とは、その形成過程及び性状が異なる。パイリングは、一、二センチメートルの皮膚がずれて、その皮膚がめくれて盛り上がったものであり、鈍体による打撲部位の周囲に生ずる辺縁性出血とともに形成される擦過傷である。他方、それ以外の単純に物体に擦ってできる擦過傷では、その末端部が線状表皮剥脱になることが多い。しかし、亡太郎の両下肢背面に、このような擦過傷があるとは認められない。本件で、亡太郎の両下肢背面には、前示のとおり、下肢骨に沿って上下に細長い外傷があり、その中央部が縦に蒼白になっており、その周囲に広範囲の皮下出血が見られるが、そのうち左下肢背面には足先から頭部に向けて皮膚がしわ寄せされて積み上がった小規模な表皮剥脱が認められる。そして、亡太郎は、前示一5のとおり、足部を本件客室側に、頭部をその反対のプール側に向けて、本件ホテルの外壁とほぼ直交する向きに、仰向けの姿勢で倒れていた。このような姿勢で転落していたこと、そして、右のとおり、両下肢背面に辺縁性出血とともに生じた挫傷が出現しながら、左下肢背面にだけ左下肢の表皮剥脱が見られたこと等からすると、亡太郎は、右大腿部、腰部辺りから落下していき、これらの部位がまずプールテラスに激突した後に左下肢が叩きつけられたものと推認できる。このようにして、左下肢が強度に伸展され、これに伴い、大腿部下方の膝窩上縁及び下腿部が足先方向に過伸展され、そのために、下肢骨とプールテラスとの間に挟まれた部分には蒼白な健常皮膚が残るが、その辺縁に位置する皮膚が床面に強く擦られて、足先から頭部に向けて表皮が擦りむけ、ポリープ状に下から上に積み上がった小規模な表皮剥脱が形成されたものと認められる。

なお、両下肢背面のやや右寄りに辺縁性出血が偏っているのも、前示のとおり、遺体の損傷が右側に集中していることを考え併せると、体を斜めにして着地したことを示唆しているといえる。

2  これに対し、被控訴人らは、左下肢の表皮剥脱が辺縁性出血とともに生じたものではなく、バルコニーの手すりやフロアの縁で擦過されて生じた可能性があると主張する。

しかし、擦過傷は、前示のとおり、表皮が擦過されて剥離し、その下の真皮が露出した状態をいうのであり、当然のことに、最も強く擦過された部位は表皮剥脱を生じる。そうであるのに、亡太郎のこの下肢背面の外傷が、被控訴人らの主張する経過でできたものであれば、最も強く擦過されたことになる筈の部位が蒼白な健常皮膚となっており、その両端付近に辺縁性出血と表皮剥脱があったことと矛盾する。また、右表皮剥脱が被控訴人らの主張する経過でできたものとすると、前示のとおり、その末端部は線状表皮剥脱を形成することが多いのに、そうはなっていない。さらに、右表皮剥脱が被控訴人ら主張の経過でできるためには、亡太郎が本件客室側に背を向けてプールの方を向いた格好でバルコニーの手すりに腰掛け、足先からプールテラスに落下しなければならない。そうでなければ、下肢背面を手すりやフロアの縁で擦過しないからである。しかし、亡太郎の両下肢には、足先から落下すれば生じるであろう骨折等の重篤な損傷が見当たらなかった。かえって、このような落下形態では現われない筈の辺縁性出血が広範囲に出現している。また、このような落下をした場合には、遺体は二階のバルコニーの直ぐ近くに、頭部を本件客室側に向けて足部をその反対側に向けて仰向けになるか、あるいは逆に、足部を本件客室側に向けて頭部をその反対側に向けてうつ伏せになるかのいずれかの姿勢をとる筈である。しかし、遺体は、前示のとおり、本件客室とその西隣の客室のバルコニーを隔てる間仕切り用のボードの真下辺りから約二メートル南側に離れた位置に、足部を本件客室側に、頭部をその反対側に向け、仰向けに倒れていたのである。亡太郎が落下途中で何らかの障害物に接触ないし衝突して体位を変えない限り、右のような発見時の状態にはならない。しかし、遺体にそのような接触ないし衝突による損傷があったかは、本件全証拠によっても認められないし、また、そもそも、そのような落下途中の障害物も見当たらない。

以上の諸点からみて、被控訴人らの主張は採用できない。

3  なお、検死報告書には、左下肢の表皮剥脱が形成された原因について、この部分が何らかの物体(例えばバルコニーの手すり)によって、足先から頭部の方向に擦られたことを示唆するとの記載がある。しかし、検死報告書自体、こうした擦過傷ができるためには、前示のとおり、本件客室側を背にしてプールの方を向いた格好で手すりに腰掛けねばならないことになるが、これは不可能ではないにしろ、困難であると記している。手すりやフロアの縁によって擦過されたものと断定しているわけではない。それどころか、《証拠略》によれば、ロサンゼルス郡検視局次席検視官補で検死報告書を作成したサラリー・ファンク自身、右表皮剥脱がバルコニーの手すり等で擦過されて生じたものではないと明言し、かつ、前認定の経過で形成されたとの見解に賛同していることが認められる。したがって、検視報告書は前認定の妨げとはならず、また、福井証言及び福井鑑定も前認定を左右する内容ではない。

三  転落位置の検討

被控訴人らは、遺体の位置について、本件ホテルの建物から約二メートルも離れてはおらず、その足まで八〇センチメートル程度しか離れていなかったと主張する。

なるほど、ビバリーヒルズ警察署の追跡報告書の現場説明欄には、亡太郎の遺体が「北側の壁から6フィート9インチの位置で発見された」と記載されている。6フィート9インチは約二・〇五メートルである。

しかし、《証拠略》によれば、追跡報告書中の現場説明欄にある「北側の壁」というのは、本件ホテルの建物の外壁ではない。それはその一部であるバルコニーの手すりの下部側壁(二階に限り、手すりの下部が側壁になっている。)を指している。遺体についていえば、本件客室とその西隣の客室のバルコニーを隔てる間仕切り用ボードの真下辺りにある二階バルコニーの手すりの下部側壁であることが明らかである。そして、《証拠略》によると、バルコニーはその中央部分が南側に半円形に出っ張り、隣室との間にある間仕切り用ボード部分(二階に限り、ボードではなく柵になっている。)はバルコニーの凹んだ部分に設置されている。バルコニーの出っ張り部分の幅は、遺体、テーブル、イス、スリッパ、レンガの大きさと対比してみると、控えめにみても、七、八十センチメートル以上と推測できる。そうであれば、遺体は、二階バルコニーの手すりの下部側壁の凹んだ部分からその足まで、一五〇センチメートル以上は離れて位置していると認められる。そして、追加報告書中の数値は実測値と解されるから、右の推測値に照らしても、これを排斥するまでの理由はないというべきである。

したがって、前示認定が覆されるものではない(以上の遺体との距離は足までの距離を指す。)。

第三  保険事故-「急激かつ偶然な外来の事故」

一  約款上の保険事故と自殺

1  本件傷害保険の傷害保険普通保険約款には次の規定がある。

第1条(当会社の支払責任)

<1> 当会社は、被保険者が急激かつ偶然な外来の事故(以下、「事故」といいます。)によってその身体に被った傷害に対して、この約款に従い保険金(死亡保険金……をいいます。)を支払います。

第3条(保険金を支払わない場合-その1)

<1> 当会社は、次の各号に掲げる事由によって生じた傷害に対しては、保険金を支払いません。

(1) 保険契約者または被保険者の故意

(2) 保険金を受け取るべき者の故意(以下、略)

(3) 被保険者の自殺行為、犯罪行為または闘争行為

(4) 略

(5) 被保険者の脳疾患、疾病または心神喪失

2  このように、本件傷害保険について、本件保険約款は、保険事故を「急激かつ偶然な外来の事故」とし、保険金を支払わない事由として、被保険者の故意や自殺による傷害を挙げている。

二  「偶然」の意味

保険事故となる偶然の事故とは、不慮の事故と同じであって、被保険者にとって予期しない出来事(事故)又は意図しない出来事(事故)をいう。これだけを考えると、故意による傷害や自殺による傷害以外のものを指すようにもみえる。しかし、これでは、本件保険約款三条一項が保険金を支払わない傷害を列挙している意味が失われる。これを本件保険約款一条一項の「偶然」でない場合の例示というのは、保険金を支払わない場合として、三条一項が挙げる各号の規定とそぐわないところがある。すなわち、(1)号の保険契約者の故意、(2)号の保険金受取人の故意、(3)号の自殺行為、(4)号の無免許運転、酒酔い運転、(5)号の脳疾患、疾病または心神喪失、(6)号の妊娠、出産、早産、流産または外科手術、(7)号の刑の執行、(8)号の地震、噴火または津波、(9)号の戦争等、(10)号の核燃料物質等の放射性や有害な特性等による事故、(11)号の(8)ないし(10)号の随伴事故、(12)号の(10)号以外の放射線照射または放射線汚染などは、いずれも、必ずしも本件保険約款一条一項の「偶然」の事故と相容れないものではなく、むしろ、偶然の事故であっても、その例外としてなお保険金を支払わない事由を列挙して、免責を認めたものといえる。このようにみてくると、本件保険約款一条一項の「偶然」の事故とは、外形的、類型的に被保険者の予期しない事故又は意図しない事故であって、これにより偶然性を備えたと一応認定ないし証明し得る事故を指すというべきである。それ故、例えば、溺死、転落死、轢死などを主張立証すれば足りるといえる。これを偶然性に対する一応の証明で足りると説明することもできる。しかし、これでは、わが国の証明責任の判例理論では、真偽不明の場合、最終的には保険金請求書が故意や自殺によらない偶然の事故であることを証明する責任を負うことになり、正確さを欠くことになる。やはり、本件保険約款一条一項の「偶然」の事故とは、三条一項の保険免責規定と対比して考えると、前示のように、外形的、類型的に偶然な事故を指し、保険金請求者はこれを主張立証すれば足りると考えるべきである。

三  保険事故の該当性

亡太郎がホテル六階のバルコニーから転落死したことは、当事者間に争いがなく、前示第二の一で認定の事実に照らし明らかである。このような高所からの転落は、他殺及び他人の加害による「高所からの突き落とし」を含め、「不慮の墜落」として、外形的、類型的に「急激かつ偶然な外来の事故」に当たるというべきである。したがって、亡太郎の死亡は本件保険約款一条一項の「急激かつ偶然な外来の事故」によるものと認められる。

第四  自殺の検討

亡太郎の死亡は前示のとおり保険事故に該当する。そこで、次に、これが前示の免責事由である自殺によるものか否かを検討する。

一  「自殺」の意味

本件保険約款三条一項には、前示のとおり、一号の被保険者の故意、三号の被保険者の「自殺行為」によって生じた傷害に対しては、保険金を支払わない旨規定し、免責事由を定めている。そして、ここにいう「自殺行為」とは、本件保険約款一条一項が「急激かつ偶然な外来の事故」を保険事故としていることに対応するものとして、捉えるべきである。このような不慮の事故の外形、類型を有するものであっても、特別の事情により被保険者が予期している行為の一つとして、「自殺行為」が挙げられているのである。そうであれば、必ずしも、被保険者による自己の生命を絶つことを目的とした周到な計画に基づくものでなくても、故意に自己の生命を絶ち死亡の結果を生じさせようとする行為であれば足りる。それは、過失行為や精神障害中の自由な意思決定を排除された状態における自死行為を含まないが、未必の故意を含む。

二  自殺の立証

本件保険約款の「自殺行為」を前示のとおり故意に自己の生命を絶ち死亡の結果を生じさせようとする行為であれば足りると考えると、その事故が過失死や他殺ないし精神障害による自死行為でないといえれば、故意の行為、すなわち「自殺行為」といえる。

そこで、先ず、これらの点につき、順次検討していく。

1  過失死の検討

被控訴人らは、亡太郎が飲酒酩酊していたから、バルコニーのイスの上に立ったり、テーブルに腰掛けた際、バランスを崩して転落した可能性があると主張する。しかし、以下のとおり、亡太郎が過失により転落死を遂げたものとは認められない。

(一) 前示第二の一1、7(二)のとおり、バルコニーの手すりの高さは約一〇九センチメートルであり、亡太郎の身長は約一五七センチメートルであった。そうすると、亡太郎がバルコニーの床面に直立した場合でも、手すりの最上部は同人の胸部辺りの高さまでくる。それ故、仮に、亡太郎がてんかんの発作を起こし、あるいは、飲酒酩酊のために誤って身体のバランスを失し、その場に転倒したとしても、手すりを越えて転落することはない。

(二) その可能性があるとしたら、亡太郎がバルコニーに置かれたイスやテーブルの上に立った状態でいるときに、右発作や酩酊により、南側に向かって転倒したような場合であろうと考えられる。

しかし、いくら飲酒酩酊していたとはいえ、血中アルコール濃度が〇・一二パーセントにすぎず、亡太郎の五九歳という年齢からみて、余程の特別の事情がない限り、そのようなイスやテーブルの上に立つという突飛な行動に出るとは考えられない。そして、本件証拠上、そのような行動に出る特別の事情もない。また、亡太郎のてんかんは、前示のとおり、就寝後に発作を起こすタイプであり、覚醒時に発作を起こすことが稀であった。亡太郎は、パジャマが使用されておらず、バスローブ姿であったことからみて、就寝前であったと推測される。そして、亡太郎は、抗てんかん剤を常時服用しており、当夜まで一四年間も発作を起こしていなかった。その血中からはかなりの程度発作を抑制し得る濃度のフェノバルビタール(催眠剤)が検出されている。このように、亡太郎は、当時、てんかん発作を起こしたとは認められないし、また、一般に、てんかん発作中にイスやテーブルの上に立つほどの体力があるとはいい難い。

そのうえ、イスやテーブルに乱れたところがなく、亡太郎の遺体が、バルコニーの中央辺りに置いてあったこれらの真下ではなく、ずっと西寄りで、隣室との間の間仕切り用ボードの真下辺りから約二メートル南側に離れた位置で発見されている。しかも、右に想定したような転落経過であれば、亡太郎は手すりにその身体の一部をぶつけたに違いないし、かばい手もしたであろうが、本件証拠上、遺体にそのことによる痕跡があったとは認められない。のみならず、ごそごその緩いスリッパ(loose fitting slippers)を履いたまま、転落していくとは考え難く、むしろバルコニー内にスリッパが脱落して残されている方が自然であるのに、スリッパは遺体とともに地上に落下していた。このように、現場の状況や遺体の損傷は、想定した転落経過と相容れない。

(三) 以上のとおり、亡太郎が誤って手すりを越えて転落したものとは認められない。したがって、右転落の原因は、他殺又は自殺ないし精神障害による自死行為のいずれかである。

2  他殺の検討

被控訴人らは、亡太郎の前額部の擦傷や頭頂部の挫傷が鈍器等で殴打されたことにより生じたものと思われることなどを挙げ、他殺の可能性を否定できないと主張する。しかし、以下のとおり、他殺とは認められない。

(一) 前示のとおり、別室の宿泊客が物音を聞いたという時刻からみて、亡太郎は二三日午前二時ころから三〇分ころまでの間にバルコニーの手すりを越えて転落したものと推認できる。しかし、その時に、本件客室やバルコニーに何者かが在室したことを認めるに足る的確な証拠がない。

(1) アンナは、二三日午前一時ころから三〇分ころまでの間に、亡太郎と別れて本件客室を出たと述べている。本件ホテルの警備員が、そのころ、売春婦らしい金髪女性がエレベーターを降りてロビーから出ていくところを目撃しており、時刻、場所、目撃状況等からみて、その女性はアンナと推認するのが相当である。

その後、アンナやボブが、一人ないし二人で、本件客室に引き返さなかったとも断定できないかもしれないが、これを目撃した者はいない。アンナは、食事等を届けに来たルームサービス担当の従業員に目撃され、同人と言葉を交わしている。しかも、二一日に亡太郎から本件ホテルの電話で呼び出されており、ボブともども身元が割れるおそれがあった。そのうえ、《証拠略》によれば、アンナは、当夜亡太郎と別れた後、もう一件別の仕事を抱えていたことが窺える。これらの事情からみて、アンナやボブが、一人ないし二人で、本件客室に引き返したとは考え難い。

また、ビバリーヒルズ警察署では、アンナとボブに嫌疑をかけ、その方向での捜査も進めたが、結局、前示のとおり、平成六年四月一三日付け追跡報告書で、亡太郎の転落死について、他殺の可能性を裏付ける証拠がないとして、捜査を終結した。

(2) 本件客室の出入口ドアは、自動ロックされており、これを外部から無理矢理こじ開けようとした形跡は残っておらず、そのような物音を聞いた者もいなかった。本件客室の隣は六七七号室であり、両客室は続き部屋であるが、その宿泊客も不審な物音に気付いていない。

(二) 本件証拠上、何者かが亡太郎に暴行を加えた形跡がない。

(1) 遺体には、転落外傷があるだけで、格闘外傷や防御創はなかった。また、本件客室やバルコニーに、争ったことを示す痕跡がなく、そのような物音、人声を聞いた者もいない。

(2) 被控訴人らは、咽頭部から発見された喫煙パイプの破片について、何者かが亡太郎を殴打した結果喫煙パイプが破損してその一部が口中に押し込まれた可能性があると主張する。

しかし、左側上下の歯が各一本ひび割れ、左側下の歯五本がぐらつき、その間にある一本の歯からは金属歯冠が脱落していたものの、顔面には挫傷がなく、とくに、唇、口唇粘膜、歯肉には全く外傷がなかった。このことは被控訴人らの想定するような暴行を加えられたものでないことを示している。

むしろ、喫煙パイプの破片は、転落の過程で、亡太郎が口中に入り込んだものと考えられる。すなわち、遺体には頚椎及び胸骨に骨折があったが、これは後に説示する転落経過、転落姿勢からみて、プールテラスに衝突した際、頭部が前後に振られて過伸展した結果できたものと推認できる。そして、歯の損傷状態は前示のとおりであり、遺体のすぐ側に喫煙パイプの火皿部分と柄の部分とが落ちていた。これらの事実を考え併せると、亡太郎は喫煙パイプをくわえたまま転落し、プールテラスに衝突した際、下顎が胸骨に強く押しつけられ、上下の顎が激しく噛み合わされたため、喫煙パイプが破断され、その破片が咽頭部に入り込んだものと推認するのが相当である。そして、何者かに襲撃された亡太郎がそれでもなお喫煙パイプをくわえたまま投げ下ろされたというのは不自然であり、かえって、咽頭部に入り込んだ喫煙パイプの破片は他殺にはそぐわないものといえる。

なお、前示第二の一5のとおり、遺体の直ぐ東側にあったテーブルの傘の布地部分に焼け焦げたような跡があり、その近くに喫煙パイプの火皿部分が落ちていた。これは、亡太郎の落下途中で、喫煙パイプの火皿から火のついたタバコがその傘部分に落下したか、あるいは、落下までしっかりくわえていた喫煙パイプが折れて下からはね上がって飛び散ったものといえる。そのいずれであるかを認めるに足る的確な証拠がないが、その焼け焦げ跡の形成過程がどうであれ、喫煙パイプの破片に関する右認定を左右するものではない。

(3) また、被控訴人らは、前額部にある擦傷と頭頂部にある挫傷について、これらが鈍器等による殴打傷と思われるとも主張する。これらの外傷は、後に説示する転落経過、転落姿勢からみて、転落の過程で生じる筈がないことをその理由とする。

しかし、《証拠略》によれば、右挫傷は、頭頂部といっても、後頭部に近い右頭頂部の位置にあり、一・五センチメートル四方のほぼ円形の紫斑点状の挫傷である。そうであれば、右挫傷は、プールテラスに衝突した際、前示のとおり、頭部が前後に振られて過伸展したことで、当該部位がプールテラスに強打されたことによって形成されたものと推認できる。

また、《証拠略》によれば、右擦傷は、前額部の頭髪の生え際部分にある一・二七×〇・六三センチメートル(〇・五×〇・二五インチ)の大きさの無血の小規模なものと認められ、何者かが亡太郎を一撃で気絶せしめる程の鈍器等による暴行を加えた結果とは到底考えられない軽微なものである。また、これが無血の擦傷であることからすると、果たして生前に形成されたものか疑問がないでもない。あるいは、亡太郎が喫煙パイプをくわえたまま転落したことからすると、プールテラスに衝突した際、その一部が擦った可能性も否定できない。

そして、他に、右挫傷や擦傷が鈍器等で殴打されたことにより生じたことを認めるに足る証拠がないから、被控訴人らの主張は採用できない。

(三) 血中からは、アルコールと抗てんかん剤以外、何らの薬物も検出されなかった。それ故、亡太郎が薬物を飲まされ、抵抗できないまま投げ下ろされたという推測は妥当でない。

(四) 両下肢背面にある外傷は、バルコニーの手すりやフロアの縁に擦過されて生じた擦過傷ではなく、辺縁性出血とともに生じた挫傷と表皮剥脱である。この辺縁性出血等は転落して両下肢背面をプールテラスで強打した結果生じたものである。重篤な損傷は遺体の右側に集中しており、頭蓋骨や両下肢には骨折がなかった。そして、亡太郎は、本件客室とその西隣の客室のバルコニーを隔てる間仕切り用のボードの真下辺りから約二メートル南側に離れた位置で、足部を本件客室側に、頭部をその反対のプール側に向け、仰向けの状態で発見された。これらからみると、《証拠略》のとおり、先ず右臀部に近い右大腿部背面が、次いで上半身の右側面が、最後に左下肢が順次転落していきプールテラスに激突したものと推認できる。何者かが、このような転落経過、転落姿勢を満足させる行為をするには、亡太郎を抱きかかえて、手すり越しに前屈位にして南側に向けて投げ出す必要がある。しかし、右作業は、その内容に加えて、亡太郎が身長約一五七センチメートル、体重約五四キログラムの体格であったことを考慮すると、同人の意識がある場合はもとより、意識を失っている場合も身体が軟らかくぐにゃぐにゃになってかえって扱い難いことからみて、著しく困難なものであるといわなければならない。

(五) 本件客室、バルコニーとも、荒らされた様子がなかった。そして、本件客室に、相当額の現金や貴金属類が手つかずのまま残されていて、亡太郎の遺留品が物色された形跡もなかった。また、亡太郎に対して、殺意を抱く程の怨恨をもつ者がいたことを示す証拠はない。そうであれば、金品を奪取する目的、あるいは、怨恨を晴らす目的で、亡太郎を襲撃した者がいたとは考え難い。

(六) 被控訴人らは、本件客室からアンナの指紋が検出されなかったことを指摘し、何者かが同室内の指紋を拭き取った疑いがあると主張する。

なるほど、アンナは、本件客室で飲食したのであるから、食器類、ことに、フォーク、ナイフやワイングラスからも、同人の指紋が検出されなかったことに疑問が生じないでもない。しかし、《証拠略》によれば、指紋は必ず検出されるものではなく、とくに、湿気や水気のある物体からは検出されないのが普通であることが窺えるから、これらの物体からアンナの指紋が検出されなかったことが格別不自然というわけではない。そもそも、アンナは、食事とマッサージのために本件客室に入ったのであるから、室内のあちこちに手を触れる必要性は乏しかったといえる。むしろ、何者かが本件客室の指紋を拭き取ったのであれば、亡太郎の指紋が二個、そして、誰のものか特定できない指紋が二個残っていたことの説明が難しい。それに、《証拠略》によれば、担当刑事であったマイケル・ホプキンスらは、指紋が拭き取られた事実はないと確信していることが明らかである。

なお、アンナにとっては、ルームサービス担当の従業員に目撃され、言葉を交わしているうえ、身元が割れる恐れがあったから、殊更にその指紋を消すことは、かえって逆効果になるともいえる。

(七) 以上検討したところによれば、亡太郎が何者かによって殺害されたとは認められない。

3  自殺ないし自死行為の検討

右1、2のとおり、亡太郎が過失により転落死を遂げたものとは認められず、また、何者かによって殺害されたとも認められない。そうすると、残るのは、自殺ないし精神障害による自死行為である。そこで、これらの点につき、以下順次検討する。

(一) 転落行為の態様と亡太郎の故意

亡太郎が、前示転落経過、転落姿勢で本件ホテル六階バルコニーからプールテラスに転落し、前示第二の一5、6、三のとおりの位置、姿勢、状態で発見されるためには、身長約一五七センチメートルの亡太郎が自ら高さ約一〇九センチメートルのバルコニーの手すりを乗り越え、プール側を背にして本件客室側を向き、手すりを持ってフロアの縁に立ち、フロアの縁を足で蹴ると同時に手を離して転落していったというほかない。

そして、この手すりの乗り越え、その後の姿勢と動作は、亡太郎の意思によらなければ、到底とり得ない行動である。亡太郎が求めなければ、そのような行動、体勢をとることはできない。そして、足で蹴り、手を離す行為も、通常、過失により生じるとは考えられない。

したがって、このような亡太郎の転落行為の機序ないし経過に照らし、亡太郎の転落は同人の故意に基づくものであって、このこと自体から既に故意に自己の生命を絶ち死亡の結果を生じさせようとする行為として、本件保険約款三条一項三号の「自殺行為」に当たるといえる。

(二) 精神障害による自死行為の有無

被控訴人らは、亡太郎のてんかん発作による過失死をいうところがあり、これは精神障害による自死行為の主張を含むものといえる。

確かに、検死報告書には、亡太郎が手すりをよじ登り、手すりに腰掛けることに成功した場合、てんかん発作により不慮の転落を起こし得たとの記載がある。しかし、前示のとおり、亡太郎が転落前にバルコニーの手すりを乗り越え、プール側を背にして本件客室側を向き、手すりを持ってフロアの縁に立つという行為は、てんかん発作中の心身を拘束された不自由な状態では到底行い得ないものである。もとより、最後の段階、すなわち、足を蹴り、手を離すときに、突如てんかん発作を起こすことも、あり得ないことではないであろう。しかし、前示のとおり、その時点で、突如てんかん発作を起こしたことを示す的確な証拠がない。また、転落した亡太郎の遺体からは、てんかん発作を起こしたことを示す痕跡は発見されていない。それのみならず、仮に、このような段階でてんかん発作を起こして転落したとしても、それは、前示のとおり、亡太郎が手すりを乗り越え、自殺姿勢をとった後の自殺に至る必然の経過中のものであって、これにより前示「自殺行為」であることを否定できないと考える。

(三) 自殺の動機

ここで、亡太郎の自殺の動機について、若干の付加的検討をする。

(1) 事実の認定

前示引用の原判決記載の当事者間に争いのない事実、《証拠略》を総合すると、亡太郎や甲原社の経済状況及び転落死までの経過等について、次のとおり認めることができる。

ア 亡太郎は、昭和三三年一月二〇日に被控訴人花子と結婚し、昭和三五年五月一日に長男である被控訴人一郎、昭和三七年二月六日に長女である被控訴人春子をそれぞれもうけた。

亡太郎は、女性関係が多く、そのため、被控訴人花子との間も夫婦関係が途絶えていたが、それでも、生活費を滞りなく渡し、親子四人の家庭生活は維持していた。自宅で、仕事のことを話題にしたことは殆どなく、転職についても事前に相談しなかった。

亡太郎は、小学校の教員であったが、大手スーパーマーケットを経営する丁原に引き抜かれ、人事部長、社長室長等の要職を歴任しながら一一年間勤務した。その退職後、コンサルタント業を営む株式会社戊田を設立し、倒産までの約一〇年間、大手スーパーマーケットの出店に関するコンサルタント業務等に携わっていた。そして、昭和六二年四月ころ、愛人の丙川竹子とともに、資本金九〇〇万円で甲原社を設立し、不動産活用に関する総合コンサルタント業務等に携わるようになった。甲原社には、両名以外に従業員はいなかった。

イ 亡太郎は、平成元年ころ、甲原社の事業の一環として、乙川株式会社の米国進出に協力することになり、アラバマ州アセンズに工場を建築した。その後、乙川社の要請を受けて、報酬約九〇〇〇万円、平成四年一一月末日までの三年間との約定で、アセンズ所在の米国乙川社の社長に就任した。亡太郎は、甲原社を丙川竹子に任せて米国乙川社の仕事に専心し、被控訴人花子とともにアセンズでの生活を送った。

ウ 亡太郎は、米国乙川社を退職する半年程前から、丙川竹子及び旧知の一級建築士丙山梅夫(平成二年九月に甲原社の取締役にも就任している。)と相談し、甲原社の次の事業として、アラバマ州ハンツビル近郊に、日本企業の五〇歳前後の単身赴任者を対象とする賄い付きのマンションを建築、運営することを計画した(アラバマ計画という。)。そして、平成四年夏ころ、右両名をハンツビルに呼び、事業候補地三カ所を検分させるなどした。亡太郎は、アセンズに常駐し、事業地の選定、行政上の許認可の取得、建築業者の選定と交渉、顧客企業の確保を行い、丙山は設計図書の作成、日本における業務一切を、丙川竹子は両親とともに賄いをそれぞれ担当することになった。総事業費は一億円であり、これを三名が等分で負担し、不足分を銀行融資で賄うが、完成前に顧客企業を確保して予約金を入手できれば、各自の負担は軽減される見通しであった。

エ 亡太郎は、米国乙川社を退職して平成四年末に帰国し、アラバマ計画に本格的に取り組むようになり、地元のJ・T・コリンズに対し、同計画を実行する際に必要となる各種費用の見積り、事業地の取得、銀行融資への協力等を依頼した。ところが、平成五年三月一八日ころになって、コリンズから、米国経済の状況からみて、アラバマ計画の実行を少なくとも一年間は控えるのが適当である旨の報告を受けた。

オ 亡太郎は、平成五年五月一九日に日本を発ち、二日間香港に滞在した後、二一日に成田経由でロサンゼルスに到着し、二四日までの予定で本件ホテルに投宿した。旅程表によると、二七日にロサンゼルスを発って帰国することになっており、帰国のための航空券も用意していた。

なお、亡太郎は、渡航に際し、中国青島の高層ビルに入るテナントを斡旋する件につき、香港でスーパーヤオハンの関係者と会い、次いで、アトランタで三菱インターナショナルの木村副部長と会う予定であると称していた。しかし、ヤオハンは、当時、上海に合弁でデパートを作る計画を推進中であり、青島に進出する意思はなかった。また、出発前に、木村副部長に面会の約束を取り付けていたわけでもなかった。

カ 亡太郎は、死亡時に、東芝ファイナンスに六〇九八万二六八五円、ビックコーポレーションに一七六四万円、福徳銀行に七二〇万円、京都銀行に三三六万五〇〇〇円、丙川竹子の父である丙川松夫に四〇〇〇万円、乙山松子に三七〇万円の各借入金債務があり、それに、カードローン他の未払債務三〇三万二一〇〇円の合計一億三五九一万九七八五円の債務を負担していた。そのほか、自宅建物に、昭和六一年八月二二日、兵庫ワイドサービスのため、極度額一〇八〇万円の根抵当権を設定しており、相当額の債務が残っていた。しかし、担保権の実行や強制執行を受けてはいなかった。

亡太郎は、借地権付き自宅建物二五三五万六四七二円、株式六六万〇〇二〇円、現金預貯金合計一五六万一八八三円、ゴルフ会員権三一五〇万円の合計五九〇七万八三七五円を所有していたが、他にめぼしい資産を有しておらず、また、右ゴルフ会員権は平成二年四月二五日から名義書換停止中で処分することは難しく、その価格も相当下落していた。

甲原社は、平成五年三月期までの累積債務が四八〇〇万円を超え、営業的には赤字続きであり、亡太郎、丙川竹子の役員報酬、被控訴人花子に対する給与の支払いも、平成四年六月から平成五年三月までの一〇か月分を遅滞していた。亡太郎は、乙山松子から、同年二月一〇日に右三七〇万円を借り入れ、さらに、同月一六日に甲原社名義で一三〇〇万円を借り入れた。亡太郎は、右債務について、毎月分割で乙山松子に返済することを約定したが、一度もこれを実行しなかった。

甲原社にもめぼしい資産はなかった。

キ 亡太郎は、控訴人に対する本件傷害保険(1)ないし(3)のほか、郵政省の簡易保険、全労災、日本生命、住友生命、平和生命との間で、自己を被保険者、保険金受取人を被控訴人花子とする傷害特約等の付いた生命保険にも加入していた。これらの中に、更新や切替をしたものはあったが、亡太郎の死亡直前になって、全く新規に加入したものはなかった。

被控訴人花子は、亡太郎の死亡により、右保険会社等から、生命保険金等として、合計二億一二五六万八九九〇円の支払いを受けた。

(2) 事実認定についての補足説明

ア アトランタ計画及び渡米目的について

被控訴人らはこう主張する。亡太郎らは、コリンズからの報告を受け、アラバマ計画の実行が難しいことを知った。そこで、亡太郎は、ジョージア州アトランタでも、同様の事業を計画し(アトランタ計画という。)、平成五年五月上旬ころ、その事業計画書を完成した。そこで、亡太郎が、右事業計画書を携え、香港での所用を済ませた後、渡米した。渡米の目的は、三菱インターナショナルの木村副部長と面会し、アトランタ計画への協力を求めること等であった。要するに、甲原社の事業が順調に進行していたし、渡米の目的も正常なものであったというのである。

(ア) そして、確かに、被控訴人らの手元にはアトランタ計画の事業計画書等があり、右主張に沿った内容の《証拠略》もある。しかし、《証拠略》中の当該部分は、その内容が必ずしも明確でないうえ、次の各事実に照らし、採用できない。

(イ) 《証拠略》によれば、被控訴人花子は、平成五年五月下旬に、ビバリーヒルズ警察署で事情を聞かれた際、甲原社の米国における新規事業がアラバマ計画であり、三菱インターナショナルの木村副部長との面会も右計画について相談するためであったとの趣旨を述べ、さらに、同年一二月一日付けで作成した確認書においても、同旨を記載していることが明らかである。そればかりか、被控訴人らの主張によれば、平成六年三月二日にビバリーヒルズ警察署から還付を受けた亡太郎の遺留品の中に、アトランタ計画の事業計画書等が含まれていたというのに、同年一二月一二日に提起した本件訴訟においては、当初、甲原社にアラバマ計画があったことを主張するだけで、アトランタ計画については全く触れるところがなかった。また、被控訴人春子が作成した亡太郎の遺留品メモによっても、その中にアトランタ計画の事業計画書等が含まれていたかどうか不明である。そのうえ、《証拠略》によれば、調査員ハロルド・エル・チャイルドは、平成六年一月五、六日、亡太郎の遺留品を調査したが、その中にアトランタ計画の事業計画書がなかったことを確認しており、また、担当刑事であったミカエル・ハインズのメモにも、右遺留品中にあったのはアラバマ計画の事業計画書であった旨記載されていることが認められる。以上からみて、亡太郎の遺留品中に、アトランタ計画の事業計画書が含まれていたかどうか相当に疑わしいといえる。

次に、亡太郎は、アラバマ計画については、地元のコリンズに依頼して、右計画を実行する際に必要となる各種費用の見積もり、事業地の取得、銀行融資への協力等を依頼するなどそれなりに準備を進めていたことが認められるのに、アトランタ計画については、そのような準備を行ったことを認めるに足る証拠がない。コリンズの報告内容からみて、また、一般的にも、そのような準備は、当然に必要な筈である。そして、アトランタ計画の事業計画書をみても、殆どアラバマ計画の事業計画書の丸写しであって、真剣に検討を加えたものとは言いかねる内容である。

その他、《証拠略》によれば、亡太郎の遺留品中にアラバマ計画の事業計画書があったと認められるが、同人が、アトランタ計画を実行に移すため、その関係で渡米したのであれば、アラバマ計画の事業計画書を持参する必要はなかった筈である。

以上の諸点に照らすと、亡太郎らが、甲原社の新規事業として、アトランタ計画を確立し、その実現を図っていたものと認めることは難しく、そして、アラバマ計画も実行が困難になっていたことを考え併せると、平成五年五月当時、同社の事業は行き詰まっていたものといわざるを得ず、将来の展望を見出せない状況にあったといえる。

(ウ) 亡太郎が、真実、三菱インターナショナルの木村副部長と面会して、商談をするつもりであれば、事前に同人の都合を聞き、その約束を取り付けておくのが、長年ビジネス界に身を置いてきた亡太郎にとっては、常識に属することと思われる。そうでなければ、せっかく渡米しても、木村副部長の不在などその都合次第によって、無駄足になるおそれがある。それは、亡太郎と木村副部長がいかに親しい間柄であっても、同様である。そうであるのに、本件証拠上、日本でその約束を取り付けた事実は認められず、むしろ、《証拠略》によれば、亡太郎は、渡米したその日ではなく、その翌日の平成五年五月二二日になって、初めて木村副部長に電話し、面会の約束を取り付けている。それも、単に不動産の件と伝えただけで具体的な説明をせず、資料を送付することもなかったことが明らかである。

しかも、亡太郎は、二一日にロサンゼルスに到着し、二七日には日本へ向けて出発する予定というのであるから、その間、七日間の日程である。それなのに、二一日から二四日まではロサンゼルスに滞在して遊興の毎日を送る計画であり、現に、二一、二二日と連日、競馬に興じ、女性と遊んでいたのであるから、仮に、アトランタヘ向かったとしても、商談に当てられる時間はせいぜい二日程度に過ぎなかった。

以上に加えて、甲原社の事業が行き詰まっていたことを勘案すると、渡米の目的も被控訴人らが主張する表面上示された正常なものであったかどうか疑わしいといわざるを得ない。

イ 青島における事業について

被控訴人らは、甲原社の事業として、青島の高層ビルに入るテナントを斡旋することも検討していたかのように主張する。

しかし、仮にそうであっても、ヤオハンにはもともとその意向がなかったことに照らし、およそ現実性のあるものであったとはいえない。本件証拠上、亡太郎が、香港で、ヤオハンの関係者と面会できたかどうか不明であるが、いずれにせよ、甲原社がそれを順調に推進していたものとは認められない。

なお、亡太郎が、右の件で、ヤオハン以外の企業との交渉をもったことを認めるに足る証拠はない。

(3) 認定事実に基づく判断

ア 亡太郎には一億四〇〇〇万円を超える多額の個人債務があった。それなのに、本件証拠上、確実な収入や債務返済の目処があったとは認められない。少なくとも、乙山松子や丙川松夫に対する債務の返済は滞っていた。亡太郎の個人資産にも、担保に供した自宅建物のほかは、右債務の引当てとなり得るようなめぼしいものはなかった。そして、兵庫ワイドサービスを除くその余の債務については、その貸主、金額等からみて、友人、知人らの物上保証や人的保証を頼み、これを担保に供したものと推認できる。頼みとする甲原社も、赤字経営が続き、累積債務が五〇〇〇万円近くの多額となっており、資産らしいものは殆どなかった。しかも、甲原社は、新規事業として準備していたアラバマ計画の実行が難しくなっており、青島における事業も全く期待できるものではなく、将来の展望を描ける状態ではなかった。これらの事情からみると、亡太郎らは、強制執行や担保権の実行こそ受けていなかったが、いずれ近い将来、経済的破綻を迎えることが避けられない状態であったといえる。そうなれば、自宅建物を失うことはもとより、家族や友人、知人にも多大の迷惑をかけることが必定であった。

その一方で、亡太郎には合計四億円近い多額の生命保険、傷害保険がかけられていた。そして、その内容からみて、亡太郎が自殺した場合、被控訴人らが受取ることのできる保険金が大幅に減少することが明らかであった。

以上によれば、亡太郎は、経済的に相当窮迫した状態にあり、しかも、それを解消する目処がなく、いずれ、資産を失ったうえ、友人、知人らにも多大の迷惑を及ぼすことが想定される事態に立ち至っていたものといえる。とくに、アラバマ計画は、米国乙川社に在籍中から、一〇ケ月以上もの長い時間と多額の費用をかけて準備してきた甲原社の新規事業であった。これが頓挫して実現が危ぶまれる状態になったことで、亡太郎は心理的にも相当追い詰められていたと推測できる。そして、そのような事態は、生命保険金、傷害保険金が下りさえすれば、右債務を返済することで、回避することが可能であり、そのうえ、相当多額の剰余が出ることが予測できた。これらの事情は、亡太郎が自殺を決意するに至る動機として、十分合理性を有するものといえる。

イ また、亡太郎の渡米には確実な商談などの正常な目的があったとは認め難いうえ、宿泊先の部屋を四階から六階に変更し、その内容からみてわざわざ米国からかける必要がなかったと解される国際電話を被控訴人春子にし、レンタカーを約定期限前に返還している。さらに、二日連続で、昼は競馬に興じ、夜は女性と遊び、平素は殆どアルコールを飲まないのに、ボトル一本近い量のワインを飲んだのであって、これらの転落死前の言動も、平素とは異質の精神状態にあったことを窺わせる事情といえる。

ウ 被控訴人らはこう主張する。亡太郎は自殺を図るような性格ではない。また、自殺する動機がないし、転落死前の言動にも不審な点がなかった。むしろ、亡太郎は帰国用の航空券を持っており、二三日の競馬の予想を行い、在米の友人に会うために電話し、就寝前に抗てんかん剤の服用を済ませていたのであって、およそ自殺を決意していた者の行動ではなかった、と。

しかし、前示のとおり、亡太郎には自殺の動機や誘因があったといえる。さらに、転落死直前の言動のうち、抗てんかん剤の服用については、その血中濃度からみて、果たして、当夜服用したものかどうか疑わしく、その他の点については、当夜自殺を決意していたことと必ずしも矛盾しない。

(四) このように、亡太郎は、自殺を決意するに至る動機や誘因があり、当夜の言動にも、平素と異なるものがあったと認められる。

(五) なお、亡太郎は喫煙パイプをくわえたまま転落しているが、自殺を決行する前に嗜好品を楽しむことが格別に不自然であるとは考えられないし、また、《証拠略》によれば、多数の自殺事例を取り扱ってきた元監察医の証人上野の経験からみて、そのような例が稀でなかったことが認められる。したがって、この点が右認定判断の妨げとなるものではない。

(六) もっとも、亡太郎には遺書がないこと、前示のとおり、帰国用の航空券を用意していた点で、同人が当初から後戻りのできない程の堅い決意で計画的な自殺を図ったといえないかもしれない。しかし、自殺を試みる者も、場合によってはそれを止めて後戻りするための用意をしていることは間々見受けられるところであって、これが自殺認定の妨げになるわけではない。また、自殺者に遺書のない場合も少なくなく、とくに保険金取得のためには、遺書は有害でさえある。

三  このように、亡太郎は自殺したものと認定できる。

第五  結論

以上のとおり、亡太郎の転落死は自殺によるものであって、控訴人の免責の抗弁が認められる。したがって、本件保険金の支払いを命じた原判決は失当であって、本件控訴は理由がある。

よって、原判決中控訴人敗訴部分を取り消し、被控訴人らの請求をいずれも棄却し、訴訟費用は一、二審とも被控訴人らの負担として、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉川義春 裁判官 小田耕治 裁判官 播磨俊和)

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